本日は、「地域再生と現代アート」というテーマで、11月22、23日に大地の芸術祭に行ってきた三文会メンバーでの発表を行いました。
1、 現代アートと十日町(奥村)
2、 十日町について、知識と肌で感じたこと(野間さん)
3、 社会学からみる地域再生、活性化(風間さん)
4、「地域活性化」の問題点(蔵本さん)
の4部構成での発表となりました。
それぞれの視点を通して、アートと地域再生を考察し、ディスカッションを行いました。
1、 現代アートと十日町
この章では、主に「現代アート」にフォーカスします。大地の芸術祭で感じたこととして、アートと地域の関わりには「十日町がアートに与える影響」と「アートが十日町に与える影響」の二つがある、というものがありました。その二つをそれぞれ取り上げることで、考察していきます。
1.十日町がアートに与える影響
「現代アート、超入門!」に、古典アートと現代アートの分かりやすい違いが示されていました。いわく、モナリザなど「どこにあってもいつであっても芸術」という作品ではなく、その作品が置かれている文脈(場所、時間、状況)によって価値が変動するのが現代アートです。
例えば、棚田に人の看板が並んでいる作品が芸術祭ではありましたが、それは「棚田」という十日町の歴史と文化を含めてその価値を持ちます。
「繭の家」という、養蚕農家を利用して繭を用いたアートを展示した作品も、一度廃れた養蚕を生活の必要性からではなくアートという観点から復活させたこと自体が「アート」になります。
また、「日本の伝統的な風景」がアートに与える影響もありました。
鏡状の作品では、作品に移り込む十日町の風景を含めて作品が完成します。
前衛的な形状、色彩で、明らかに周りから浮いてしまう作品も、よく観察することで十日町と親和性を持つ要素がみられました。(「境界の神話」など、「お盆」の要素が周囲の風景と解け合っています)
また、信仰が残る地方の街だからこその、親しみやすい距離感が提供されました。上から目線ではなく、その辺にいそうなお爺さんおばあさんが実感を込めて作品解説をしてくれます。
過度なスタイリッシュさを一切排除して、コンクリート打ちっぱなしのさみしい空間ではなく、生活感と土着の信仰心に満ちた空間だからこその価値が、作品そのものに加えて付加されていることで、より価値の高い「アート」が完成されていました。
あとは単純にスケールメリットがあげられます。田舎なので広い場所がたくさんあり、そこを車で回ることで、宝探しの感覚になりました。
2、アートが十日町に与える影響
「その辺のものすべてがアートに見えてくる」に尽きます。
トタン小屋をカラフルに塗った作品がありました。はじめは「その辺の人がアートに目覚めてぬっちゃったんじゃない」などと言っていました。しかし、本当は著名な芸術家の作品であった、と発覚。
地図が作品を示してある場所に行っても、どこまでが今回のための作品でどこまでがもともとあったものなのか分からなくなっているものもありました。(戦没者慰霊の場所)
コンテクスト、という観点では、十日町全体が現代アートになり、そうなると、そのアートを守らなければという意識も生まれます。「棚田の保護」にもあるように、「芸術作品」という観点からでも町の価値を見直していくきっかけになりました。
繭の家も、作品のために養蚕を再開しましたが、それが技術の継承に役立つかもしれません。
十日町全体、ひいては地域の人、観光客も、「自分自身がアートの一部」と感じられる芸術祭でした。
2、 十日町について
養蚕、棚田がかつては盛んだったのですが、現在では、どちらも衰退しました。
「近代雪祭り」発祥の地でもあります。札幌などよりも早くから雪祭りを行っていました。
また、今回現地で合流したHIP(ホームアイランドプロジェクト)の方が体験していましたが、「雪国DASH村」という取り組みがなされています。農業体験などを都会の若者が行うようです。
このように、もともと地域興しの素養がある地方なのです。
大地の芸術祭は、今回で4回目です。2000年から、3年に一度行われてきました。年々、作品の質が向上しており、観光客が増えています。外人も多いといいます。
しかし、実際にどのくらいのお金が地元に落ちているのか疑問、というのが行ってみた感想です。
東京からだと、新幹線で越後湯沢まで2時間もかかりません。そこから在来線かレンタカーで十日町を目指します。車で直接十日町まで行った方もおり、アクセスは悪くはありませんでした。
しかし、十日町そのものは車がなければ何もできない典型的な地方の町でした。
道路は非常にきれいに整備されていました。ただ、これは地方では珍しいでしょう。たいていは使いにくい道が続きます。
例えば海外の観光客だったり、都会で運転ができない人ばかりのグループだと、それは大きな障壁になります。
レンタカーも、近隣の大きな町ではないと借りられないのが現状です。地元にお金は落ちません。
食事やお土産といった場所も、典型的な観光都市と比べてとても少なく、お金が落ちる場所が少ないな、と感じました。
アクセスの要所である越後湯沢でお金がとまってしまい、十日町まできていないのでは?と思います。
また、芸術祭は3年に一度なので、継続的な雇用創出ができておらず、人材の流出阻止や育成ができていないという問題があります。
常設的に残る作品を利用して、一過性ではない町おこしをしていくことはできないのか、と思いました。
3、 社会学からみる地域再生、活性化
「社会学」→当たり前のことをややこしく解説するだけの学問では?とはじめは思っていました。しかし、そうではないのです。
今回は自分の専門である社会学を利用して、大地の芸術祭と地域再生を考察したいです。
学部時代に専門としていた経営工学は、マスをみて最適化を目指す。(川下のフェイズ、マジョリティー)
現在の専門である社会学は、個々の事例を見てストーリーを構築していく(川上のフェイズ、マイノリティー)
地域再生で有名なのは、上勝町です。
料亭の料理などの飾り付けに用いられる「葉っぱ」を出荷することで、お年寄りが多く暗かった町が、雇用が創出されて生き生きと再生される、という有名なサクセスストーリーが語られています。
雇用が創出され、仕事があることでお年寄りが元気になり、なんと老人ホームが閉鎖された、といいます。
しかし、その再生のロジックは正しいのでしょうか? いいえ、違います。
地域振興には、基礎体力(財政、人口、システム)と、住民からの自発的な「ストーリー」が相互作用していくサイクルが確立されることが必要です。
ここで大切なのは、「自発的」なストーリーであるということです。
外部の人間が、「こうすればこの地域は活性化する」と理論を持ち込んでそれを当てはめるのは、真の地域再生ではありません。
地元の人たちの中から生まれるストーリーでないとダメなのです。
それは、学問の公式に昇華できないものかもしれません。しかし、それを汲み取る学問こそが社会学なのでしょう。
大地の芸術祭も、住民が内在する気質の発現ならばこれからも質を保って続いていくでしょう。
しかし、町民の自発に基づかない行為に振り回されるならば、そうはいきません。
自分が町民ならばどう思うか、考えていきたいです。
4、 「地域活性化」の問題点
「地域活性化」というと盲目的によいことのように思われているが、必ずしもそうではない。
特に「この地域は活性化しなければならない」と外の人間に言われた地元の人に取ってみれば、「俺ら別に活性化する必要ないと思うんだけど。失礼じゃない?」となる可能性もある。病気でない人間に、病気だよ君、と言っているようなものでもある。
大地の芸術祭そのものも、地域のための住民の発意よりも市長の実績作りではないか?という見方をする人がいないわけではない。
地域の主体は住民。住民の意見を吸い上げるのが基本であり、仮に日本全体の将来のための活性化が必要というのであれば、まずそれを住民に感じてもらうことが必要ではないか。
上勝町でもそうだが、地域活性に成功している所の多くは、地域に住んでいる人たちの自発性によるものだ。
以前「ムラアカリをゆく」の友廣さんが言われていたことでもあるが、都会の人の言う「地域活性化」には、このような住民の視点が欠けていると感じることも多く、ともすれば価値観の押し付けのようになっている。
また、これまで公的機関中心の資金運営だったが、今回からベネッセ会長の福武さんが総合プロデューサーとなり、おそらくかなりの資金援助をしている。
これによって方向性が変わる可能性もある。それが吉と出るか凶と出るかは今後見守りたい。
その他の議論
・地域活性化のためには道路を作ればいいのか
名古屋周辺では、道路のアクセスが悪い地区はどんどん寂れていく。山形では、道路を作って映画祭の招致などをしたが、風景が都会と均質化していって山形ならではの魅力が失われた。ありのままの地方の風景も観光資源の一つであり、単純に道路を造ればいいというのは疑問。
地域活性化のゴールが、「都会のような便利さ」なのか、「地域の特色を生かしたもの」なのか、という問題にもなってくると思います。
便利さを求めれば均質化してしまいます。特色を求めるならば観光業への依存が強くなる傾向があり、観光業はそもそも観光地にするために地域を交通面や宿泊面で整備していかねばならず、「ありのまま」と両立しない、という矛盾があります。
・ 住民の反発
特に現代アートは前衛的なモチーフも多く、理解を得にくい。ハレの日に美術館にあるべき作品が、ケの日の生活に入り込むことへの拒否感
・アートもいいけど優先順位としてどうなのか。お金をかけるべきは他にもあるのではないか。
メンテナンスの必要性。屋外の作品は傷みやすいが、著名な作家の作品であり、また芸術作品であるという観点からも簡単には打ち捨てられない。常設するならばメンテナンス費用がかさんでいくことを考えると、「資産」であると同時に「負債」であり、将来への責任をきちんと考えないと行けない。
高齢化社会、都市集約社会になる中で、地域という立場をどう考えていくか、勉強になりました。
また、アートへの日本人のスタンス作りも、今が過渡期なのかもしれません。コンテンツ産業戦略も絡めながら、都市の知識人だけのアートから、解放されたアートに変遷していくことも期待されます。
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