今回は学際情報学府修士一年の熱川さんに「けっこう共感できる哲学: 三木清『人生論ノート』」と題してお話し頂きました。
普段はあまりなじみのない「哲学」というトピックですが、議論が熱く盛り上がり、さまざまに考えさせられる朝になりました。
三木清とは、
● 大正・昭和に独自の思想を展開した日本の哲学者
● 1897年に兵庫県に生まれる
● 一高を経て、京都帝国大学で『善の研究』の西田幾多郎に師事
● 学部生のときから学会誌に論文を次々に投稿
● 1922年に西欧に留学
● ドイツで『存在と時間』のハイデガーに師事
● フランスではパスカルの著作に巡り会う
● 1927年に法政大学教授に(このころ本郷菊坂に住む)
● 未亡人との関係が問題になり、京都帝大教授になれなかったとも
● マルクス主義に接近
● 1930年に、共産党に資金を提供した疑いで検挙される
● 教職を退き、文筆業に専念
● 1945年に、警視庁を脱走したタカクラ・テルに食事と衣服を与えたとして再検挙
● 拘置所の衛生状態が悪く、敗戦後の1945年9月に獄死
● 著作には
● 『パスカルにおける人間の 研究』
● 『唯物史観と現代の意識』
● 『歴史哲学』
● 『構想力の論理』
● 『哲学入門』
● 『親鸞』(未完)
などがある…が、どれも普通の人がいきなり手に取るにはとても難しい。
そこで!
『人生論ノート』
● 比較的短い三木の書籍(1941年に刊行)
● 新潮文庫で153ページ
● 雑誌『文学界』への連載をまとめた
● 短文で、数行の節を連ねる
● 16~18世紀フランスのモラリスト(モンテーニュ、パスカルら)の形式
● 詳しい説明がない分、読みやすいとはいいにくいが、どこから読んでも直観的に共感できる1文に出会える可能性がある
用語のざっくりした意味
● 虚無
既存の「形」を破壊する創造の力の源泉
● 構想力
虚無から「形」を作ることを通して、感性と悟性、
パトス的なものとロゴス的なものとを媒介するもの
● 技術
主体と環境とを結び付ける働き
以下、例文を紹介しながら『人生論ノート』を読んでいきましょう。
「死」
近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。(p. 7)
自分の親しかった者と死別することが次第に多くなった……仮に私が百万年生きながらえるとしても、私はこの世において再び彼等と会うことのないのを知っている。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に会い得ることを確実には知っていない。しかし、そのプロバビリティが零であるとは誰も断言し得ないであろう……もし私がいずれかに賭けなければならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであろう。(p. 10)
「賭け」
賭け
……あらゆる形成作用の根柢に賭があるといわれ得る。(p. 26)
あらゆる事柄に対して保証されることを欲する人間――ひとは戦争に対してさえ保険会社を設立する――も、賭に熱中する。言い換えると、彼は発明された偶然、強いて作られた運命に心を砕こうとするのである。恐怖或いは不安によって希望を刺激しようとするのである。(pp. 130-131)
「虚栄」
虚栄は人間の存在そのものである。(p. 39)
ヴァニティはいわばその実体に従って考えると虚無である。ひとびとが虚栄といっているのはいわばその現象に過ぎない。(p. 41)
すべての人間的といわれるパッションはヴァニティから生れる。(p. 41)
「成功」
成功というものは、進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福は、本来、進歩というものはない。(pp. 73-74)
幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。(p. 74)
近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の観念との混合から生まれた最高のものは企業家精神である。(p. 76)
「近代化学」
仮説という思想は近代科学のもたらした恐らく最大の思想である。近代科学の実証性に対する誤解は、そのなかに含まれる仮説の精神を全く見逃したか、正しく把握しなかったところから生じた。(p. 115)
すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもっている。なぜならそれは仮説の追求であるから。これに対して常識のもっている大きな徳は中庸ということである。しかるに真の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといった性質をもっている。(p. 114)
「発明」
……忘れてならないのは、発明は単に手段の発明に止まらないで、目的の発明でもなければならぬということである。第一級の発明は、いわゆる技術においても、新しい技術的手段の発明であると共に新しい技術的目的の発明であった。(pp. 125-126)
「批評と娯楽」
噂よりも強力な批評というものは甚だ稀である。(p. 87)
娯楽を専門とする者が生じ、純粋な娯楽そのものが作られるに従って、一般の人々によって娯楽は自分がそれを作るのに参加するものでなく、ただ外から見て享楽するものとなった。彼等が参加しているというのはただ、彼等が他の観衆とか聴衆の中に加わっているという意味である。(pp. 123-124)
祭が娯楽の唯一の形式であった時代に比較して考えると、大衆が、もしくは純粋な娯楽そのものが、もしくは享楽が、神の地位を占めるようになったのである。(p. 124)
より深く読みたい人へ
● 王道は『三木清全集』全20巻(1966-1986、岩波書店)
● 『人生論ノート』は新潮文庫とPHP研究所から青空文庫に全文がある(http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/card46845.html)
●今回の種本は田中久文先生の『日本の「哲学」を読み解く:「無」の時代を生きぬくために』
(2000、筑摩書房)
● 研究では、唐木順三氏の『三木清』(1966、筑摩書房)と、宮川透氏の『三木清』(1970、東京大学出版会)が有名
● 最新の研究は熊野純彦先生編著『日本哲学小史: 近代100年の20篇』(2009、中央公論)