6/23現代的活動家入門~合コンから選挙まで~

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今回は、現代的活動家入門~合コンから選挙まで~という題で、日本唯一のプロスピーチライターで株式会社コムニス代表、他にもさまざまな活動を行っている蔭山さんがお話してくれました。通常より長めの90分間(講演45+質疑応答45分)の中で、活動家とは何か、現在どんな注目すべき活動家がいるか、釣り道具の作り方(詳細は後述)といった話とそれらに対する質疑応答の時間がありました。(さらにその後モンテベルデから場所を移って、120分間蔭山さんと質問形式でお話する時間もとることができました。)25人以上の参加者に加え、Ustream配信でも過去最高の試聴者がつき、食事は持ち帰れる程の量のサンドイッチにおにぎりと、非常に盛り上がった会となりました。

では、実際に蔭山さんからどんな話があったのか。

やや強引に要点をまとめると、

1.活動家とは、釣り師である。

2.活動の源泉となるバイタリティを生み出すのは、モテたい気持ち(重要)である。

という話でした。以下、順を追って見ていきます。

まず、活動家とは何か。

蔭山さんが象徴的に用いた1枚のあるキャラクターの絵が衝撃的でした。活動家とは、釣り針があって、引っ張り上げられるイメージ。つまりはサルベージだと。

 では、活動家と呼ばれる活動と、活動家ではない活動を分けるものは何なのか。社会には、枠組みがあって、ルールがある。しかし、そこからこぼれおちてくる問題も、多く存在している。それを、包摂する形で活動する人・・・、つまり、社会の枠組みにアプローチする人のことを活動家と呼んでいます。それは、自分の居場所を確保するために活動することとは対照的なものです。ちなみに、社会の枠組みを回していく人を実業家と呼ぶ、ということです。

 次に、活動家の紹介にうつります。具体的な(現代の)活動家の例として、湯浅誠、スティーブ・ジョブズ、孫正義、勝間和代、西村ひろゆき、苫米地英人、宮台真司、アダム徳永(!)、そして蔭山さんご自身(笑)を挙げていました。まず、湯浅誠に対して楽しくない、もっと人を巻き込めと注文を出していましたが、そこで鳩山前総理のtwitter上での発言でもおなじみの「裸踊り」の動画を見ました。まず始めに踊り出す人がいて、そこに徐々に人が集まってくる。3人以上人が集まればニュースになる。まさに、ある活動が「ムーブメント」となっていく様子を象徴した映像です。それでは、鳩山さんの「裸踊り」には何が足りなかったのか。参加者との議論の中で、鳩山さん自身が楽しめていなかったこと、2人目・3人目がなかなか現れなかったこと、などの意見が挙げられました。そして次は、スティーブ・ジョブズ。iPadが世界に何をもたらしたかということを例に、スティーブ・ジョブズをなぜ活動家と考えるかを明解に語ってくれました。iPadはどのような点で活動家的なものなのか。それは単に、これまでになく使いやすいといったことではない。今、PC市場においてはウィンドウズが依然として圧倒的なシェアを誇るが、タブレットPC市場においてはiPadが圧倒的である。そして、スマートフォン市場ではiPhoneが強大な力を発揮している。タブレットPCやスマートフォンが、人々がPCに求めていた多くの部分を代替できるようになると、PC市場がそれらに浸食されていくという「ムーブメント」が起こる。こうして、ジョブズは市場の枠組み自体を変えている。まさに、活動家であるというわけです。他には、孫正義が「ひかりの道」のプロモーションにtwitterUstreamを積極的に使用していることに触れ、それらがロビイングツールとして非常に大きな力を持つことなども話していました。勝間和代とひろゆき氏に関しては二人の対談について触れました。二人の話がどこまでも平行線であった上、勝間さんが釣られてしまっていたことから、立ち位置が違う活動家どうしが対談するのはやめたほうが良いとまとめていて、会場が和やかな雰囲気に包まれました。

 そして、今回の発表の中で最も印象に残った人物が苫米地英人です。悟りを開いていると自称する苫米地氏を、蔭山さんは「希代の釣り師」と呼んでいました。なんでも苫米地氏は、「色即是空は間違いである」と言ったそうです。いきなりそんなこと言われても何のことやらさっぱりでしょう?それが、話を聞けば聞くほど、どんどん苫米地という人物に興味を持たされることになりました。ここでは、「空」の概念に関する話が出てきました。直感的につかみづらい話ではあるものの端的に言うと、この「空」という言葉が意味するのは有と無の上位概念(つまり有と無の両方を包含している)だということです。だから、色即是「無」なら良くても、空とするのは間違いだということです。今日その話を聞くまで、空という概念など、全く考えたことがなかったことでした。

 活動家紹介の後にはいよいよ、私達が実際に活動を起こしていく上で利用できる「釣り道具の作り方」の話となりました。釣り道具とはもちろん活動家として人を巻き込んでいく方法の比喩ですが、これは、合コンから選挙まで、あらゆる場面で活かすことのできる本質的な部分の話で、とても参考になりました。釣り道具は、3つの要素から成ります。すなわち、シナリオ、演習、演技です。そして、シナリオの作り方は3つのステップから成っています。立ち止まらせる、イメージさせる、コミットさせる。まず、立ち止まらせなくてはいけない。Happyな人間は現状維持を好むようものだから、そこに変化を与えるには何かが必要になる。そこで、それをすればもっと素晴らしい幸福が得られると伝える、もしくはそれをしないと今の幸福が失われてしまうとおどす。そうすれば、反応を示す。それが立ち止まらせるという意味です。その後で、言葉やノンバーバルな情報を用いて、実際にそれをすることで何かを得た状態をイメージさせ、さらに実際の行動としてコミットさせる(たとえば、社会活動において100円でもいいから寄付してもらう、など)。相手をうまく釣るには、このステップしかないだろうと言われていました。

ここまでで一度話は仕切られ、質疑応答の時間となりました。

 参加者の方々から、かなり鋭い質問が続き、聞きごたえのある質疑応答となりましたが、その中で特に印象深かったものをいくつかとりあげてみます。

 1つ目が、活動家として何かしらの活動をしていく時に、また日常のナンパや合コンのような場面において、究極的には自分に自信が持てるかが一番大事なのではないか、という質問です。これは、おそらく多くの方がそう感じさせられる経験をしたことがあるのではないでしょうか。蔭山さんは、まさにそこが本質だと、自信を持つことの重要性に同意するとともに、ではいかにしてその自信を得るかという次の質問に対し非常に参考になる例を挙げてくれました。それが、郷ひろみという男です。50を過ぎてもなお、郷ひろみらしくあり続けることをやめない、郷ひろみという存在。あるテレビ番組で、自分らしさを保つ秘訣として郷ひろみ自身があげていたことが、肉体的な筋トレと、なんとポーチに常に夜用下着を入れて持ち歩き、夜には履き替えているということだったそうです。これには会場全体がかなり納得といった雰囲気に包まれていました。「郷ひろみなら何をするか」という、そこにある「役割」を考えて、演じていく。そのために、肉体的な鎧をまとう、気分を変える方法論を確立していくなどして、「役作り」を忠実に行っていく。あらゆる活動においてうまくやっていくためのヒントがここにあると思いました。

また、次に浮かびあがる質問、そもそも活動を始めようとする最初のモチベーションがどこから来るのか、という問いに対してはほとんど出会いだと言っていました。何かをやっていれば、そこで責任が生じ、身動きがとれなくなる。その中で発生した役割を演じる必要性が出てくる。そういうものだそうです。さらに言えば、あらゆる活動の源泉にあるのは「性」だということでした。

 2つ目には、実際に、例えばマーケティング等の場面において、前述の釣り道具の使い方を具体的にどう活かせばいいかという質問です。これには「なぜ資生堂とコーセーの化粧品は両立しないのか」という親しみやすい例を挙げ、また信念体系・認知的不協和という心理学の用語をからめて説明してくれました。認知的不協和とは、イソップ物語のすっぱいぶどうの話に見られるような、手に入らないものがあるときにそれの自らにとっての価値を下げることで納得する心理のことです。これによれば、たとえばAB2つのものがあるとき、Aを選んだらBは価値の低いものだとみなすようになり、Bを選べばAは価値が低いとみなすようになるということです。つまり、我々は間違った選択を生涯に渡ってしないということです。ここで、化粧品はメーカーによってそれぞれ違うものであるという信念体系を持たせておくことで、資生堂の化粧品を使っていた人がコーセーの化粧品の試供品をたまたまもらって使ってみたら良かったという場合に、他のコーセー商品を勧められたら次々に買っていき、コーセー商品のみを使うようになります(それが本人にとって調和のとれた状態となる)。こうしたメカニズムを活かせばよい、ということでした。

その後さらに、モンテベルデから場所を変えて続きの質問タイムがありました。ここでもかなり抽象的な話が続きましたが、その中で最も印象に残った話題を1つだけ取り上げます。

科学とアートの違いは何か?

科学は微分、アートは積分である。

たとえば人間とは何かを考えるときに、脳科学の見地から人間とは脳と脳のひらめきである、と言ったとする。これは、人間をより細かい要素に分けていったときに脳と脳のひらめきであると言えるのであって、脳と脳のひらめき=人間であるということはできない。科学とは、あるものを分解していくことであり、そのもの自体を説明できないものです。

逆に、リーマンショックとは何かと考えるときにアートの立場からは、ウォール街に住む浮浪者が見たものを表現するなど、それが包含する要素を象徴的に表すことで全体が浮かび上がるようにします。これが、積分的であるという意味です。そのため、「わかる」という感覚はアートによるものとなり、一方で理屈がわからないと物事に応用できないので科学は必要となります。つまり、両方が必要です。これは、なるほどと思いました。

他にも、抽象的かつ本質的な話が続き、何を信じて良いかよくわからなくなる部分もありながらも、予想外なほど真剣に思考をめぐらす時間となりました。

また、再三にわたってその重要性を強調されたことで、モテたいという気持ちこそが活動のエネルギーを生み出すということ、人は弱いので何かに首をつっこんで抜けられなくなる状態となって強制力が働くことでモチベーションが高まるということに気付き、今この場所でもっと濃密なコミュニケーションがとれるように頑張っていきたいと感じました。参加したみなさん、ありがとうございました。

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