3/9【経済研究は未来を予想すべきか、いやその前提としての経済統計】

経済学者による様々な将来予測のもと、様々な政策提言がなされており、市民としては翻弄されがちです。
各自が好き勝手に言っているのではないかと訝しんでしまうこともあるかもしれません。
そこで次回の三文会では、経済研究の客観性を担う経済統計について知り、世間を渦巻く様々な経済予測の成り立ちに目を向けてみましょう。

 

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以下、発表者の吉村さんによる告知文です。
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新聞やテレビ等のメディアを見ると、経済学者、ないしエコノミストが多種多様な将来予測と政策提言をしており、混沌としている。これは例えば、物体の運動や電磁場の挙動に関して、物理学者が皆同じ答えを共通に返すこととは対照的である。これを以て、経済研究は言いたいことを何でも言えてしまう放言に近いのではないかと思われてしまうのも無理はないのかもしれない。

このようになる理由は恐らく、経済は国民の生活水準を規定するものであるから、経済研究の成果は何らかの形で政策提言に使われるのが合理的であり、経済研究を最もよく知っているのが経済学者であるからだと思われる。即ち、将来のことが分からないからといって、何も語らない訳にはいかないのである。少なくとも、過去についてだけ述べ、予測は行わないという立場を意図的に取ることは難しい。そして経済は複雑で捉えどころが無いから、必然的に個々人で判断が分かれてしまう。

そうであるならば、経済研究は研究者個人が自分の政治思想に都合の良い主張を知的にデコレートする為の道具に過ぎないのであろうか。いや、そうではないと私は考える。経済研究にはある種の客観性はあり、それを齎しているのが学派の形成と経済統計である。学派の形成とは、自分が何を、どういう仮定の下で語るかを固定するということである。個々の問題毎に都合良く結論を作るような議論の一部は、問題毎に全く異なる人間像を持っているであろうから、そのようなものは除くことが出来るであろう。また経済統計は、それぞれ経済の何らかの現状を測定したいと思って計測される訳であるが、社会を単純かつ完全に記述する方法は無い以上、それぞれに特有の歪みがある。その歪みを利用すれば恣意的な主張を作れてしまうことを考えれば、個々の経済統計の性質を知ることは客観性を保つのに必要であろう。

このような問題意識に基づいて、全ての経済理論が全ての経済現象を議論出来る訳ではないこと、経済統計を読むという行為には十分な練習が必要であること等を話す予定。尚、私は経済学の体系的教育は受けていない為、講演内容の正確性については必ずしも保障出来ないことを予め断っておく。

【一分間スピーチ】
個々の経済学者やエコノミスト毎に将来の予想、推進する政策が異なることは望ましいことだと思いますか、それとも予想や政策は一致するべきだと思いますか。

【発表者プロフィール】
吉村勇志
東京大学工学部システム創成学科4年
卒論はMinority Gameを用いた金融市場の研究
最近はorder bookについて文献を読んでいる
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三文会では発表者を募集しています。
興味のある方はsanmon-core@logitoy.jpまでご連絡ください!


参加費(朝食込み):学生 600円、社会人 1200円(朝食抜きの場合は、400円、800円とします)

参加連絡は参加確認フォームからお願いします。※ちなみに毎回このようなお弁当(スープ・コーヒーつき)が出ます。

朝7:40開始、9:00終了(予定)、その後も1時間ほどはフリーに喋っている人も多いです。

会場の最寄り駅は、本郷三丁目(徒歩15分)、東大前(徒歩10分)、春日駅(徒歩15分)です。本郷6-2-9のマンションの2階になります。

会場は、東大正門(赤門ではありません)前、ファミリーマート左隣のビルの2階、「モンテベルデ」という喫茶店です。

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